勝山南高教諭 川村 信冶さんのお話。
勝山にある「ゴスペル・ウインディ・フレンズ」というグループで歌っている。
私は必ずしも宗教的意味を理解しておらず、またその宗教は自分のものではないが、主に合唱することの喜びを味わっている。
グループの他の人たちも、祈りとしてよりは発表を目指して練習を重ねる。
12月にはジョン・レノンの曲「ハッピークリスマス」で
「War is Over,If you Want it」(あなたが望むなら戦争は終わる)と歌った。
リーダーの女性は、東京へ嫁いだピアニストの娘さんが立ち上げられたこのグループを引き継ぎ、市内のいろいろな文化事業にかかわっておられる。
とても行動的な人だが、同時に謙虚でおだやかな人柄だ。
純粋で嫌味がないどころか、他の人から不当な嫌味を受けても
なおその人を受け入れる。
芸術には人が表れる。
歌にも。
私は学生時代から初めて、多くの合唱団で歌わせていただいた。
合唱にも人が表れる。
そして、その人たちの関係の在り方も。
何らかのパワーを背景にして、一方の気持ちの自由を制限しながら他方に都合がいい関係を上下関係というなら、上下のある関係や社会が達成できることには限界がある。
このグループもリーダーや会計さんやピアニストや指揮者ら、それぞれの役割はある。
けれど、そこに上下関係があるわけではない。
このグループはお互いがとても平等だと感じる。
当然のことのように思えて、平等の実現はそれほど簡単なことではない。
けれど、本当に平等な二人の愛はその人に人間として最高の喜びをもたらすように、平等な関係には心が通じ合う深い喜びがある。
地域でグループを組めばお互いに何らかのつながりがある。
母の介護器具でお世話になっている会社の方がいたり、高校時代の同級生の妹さんがいたり(昔一度家に訪ねたとき、その方は6歳だった)、中学時代の先輩の娘さんがいたり....。
そのつながりがすべて楽しいものに思えるのも、このようなグループだからこそではないか。
喜びとはいえ、ハーモニーもリズムも未熟だ。
けれど、別の場所で教わったのだが練習は魂を磨く場だと。
確かにそう感じる。
法の下の平等だけでなく、神の下の平等を受けているというべきか。
ところで、平等と、皆が同一であることとは違う。
私たちのリーダーのように多方面でまじめな活動をすることで、愚かな非難を受けたりすることもある。
個性のある平等の実現のために人間はいろいろと築いてきた。
例えば前の教育基本法。
大江健三郎氏が言ったように、あの「名作品」をポケットにしまって、自分が自由でないと感じるときに、そっと開いてみるのもいい。
誰かが全体を決めるような決定的に不平等なグループの歌はどんな歌になるのだろう?
私はこの「風のような友たち」とゴスペルを歌いながら平等であることの良さを歌っている。
月に数度。
大拍手です〜〜〜〜〜
パチパチパチ〜〜〜〜〜
素敵です。。。
きっと素晴らしい歌を奏でるのでしょうね。
歌は気持ちの表現。。。
心の表現。。。
もちろん楽器も同じ。。。
心を気持ちを奏でるんです。。。
とても大事で大切なこと。。。
今日もありがとう。。。
さらに昨日よりもがんばります☆