うはー。。。。
妻は人事異動が出来ない。
そのため一度こじれると、その修復は困難を極める。
妻には「会社の倫理」は通用せず、会社人間ほど妻に手を焼くことになる。
修復しようと気がついても手おくれになり、そういった男たちはグレる。
男の企画力の数々は欲望の見本市であって、自在なる衝動に身を任す。
となると犯罪者になる危険があるから、ぎりぎりの境目でブレーキをかける。
そこには妻というブレーキが不可欠になる。
しかし、ブレーキばかりかけていると、世間的常識に輪をかけた中古品の粗大ゴミになってしまう。
きゃあああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ
達人は妻に口ごたえしない。
あははははははははは〜〜〜〜〜っっ
妻の愚痴を聞く。
これは耐え難い試練であるけれども、夫に愚痴をこぼしているうちは、妻は離婚まで考えてはいない。
むしろ妻が愚痴をこぼさなくなったときが危険なのである。
沈黙する妻は危険区域にいる。
うははははははははは〜〜〜〜〜っっ
妻とモメることを、いちいち反省しないことである。確信犯である。
ぎゃはははははははは〜〜〜〜〜っっ
いちいち妻のいうことを聞いている男の方が、離婚を言い渡される確率が高い。
びくびくしていると、そこにつけこまれる。
いやぁああああ〜〜〜〜〜〜〜〜っっ
妻は妻。妻がいなければ、別の女と恋愛したって楽しくない。
うっそぉぉおお〜〜〜〜〜〜〜〜っっ
道楽生活をするのには、妻から自立して、妻にそれを認めさせなければならない。
離婚は体力も経費もかかり、道楽者がすることではない。
四十代までが離婚適齢期であって、還暦を迎えると離婚はややこしい。
あとは死ぬのを待つだけ、といったって、うっかりすると九十歳までいきのびてしまうかもしれない。
死ぬことより、生きていくことの方が難しい。
アカの他人が夫婦という危険な関係になったのである。
長年築いてきたつもりの信頼関係が、妻の気まぐれによって、一瞬にして終わってしまう。
その危険を回避することが、男の使命である。
といったって、相手は妻という名の魔物であるから、そう簡単にはいかない。
先人はいかなる手で妻との関係を修復してきたか、という、つまらぬようであり実は厄介なことを調べることにした。
仕事人間の方が、妻に離婚をつきつけられるという実情がある。
平成に入ると、妻はいっそう進化して、手がつけられなくなってきた。
さりとて、マイホームパパ化した男が安泰であるとも限らない。
妻は、年をとるほど一触即発の地雷となっていく。
離婚したがる妻と、濡れ落ち葉として妻にすがりつこうとする夫を、いかに調整するかが時代の課題である。
ぶはははははははははは〜〜〜っっ
妻がいうことをきかないと悩んでいる夫が多いが、ふてくされた妻は日本が世界に誇る文化遺産であって、人妻は女の伝統芸能である。
かわいかった娘の幼虫は、脱皮して専業主婦に化け、夫が稼いだ養分を吸ってぬくぬくと生育してきた。
男たちが望むパターンに良妻賢母という考え方がある。
これは家父長家族制度に適合したもので、家を守っていくための理想像とされた。
若い夫が妻に求めるもの最大のものは性行為であって、炊事・洗濯なんてのは二の次でよい。
独り暮らしの男は、食事は自分で作る。外食してもいいし、コンビニ弁当があり、デパ地下の惣菜でもことたりる。
服は洗濯屋に出せばいいし、下着の類は洗濯機で洗える。
掃除だって業者にまかす。
どうにもならず、代行がきかないのが性行為であって、これとて性風俗へ行けば一時しのぎにはなるが、金がかかるし、気分がのらない。
情がなければ男女関係はたちまち破綻する。
ここはやっぱり、自前の女が家にいた方が精神的に安定し、仕事に専念できる。
ということは、妻は男にとって合法的な慰安婦なのである。
性的慰安さえ満足すれば、炊事・洗濯なんてのは二の次でいい。
これがオスの本性である。
(−−#)(−−#)(−−#)(−−#)(−−#)
いっぽう妻が夫に求めるのは、生活の安定であり、少しぐらいブオトコでわがままであっても、稼ぎがよく、社会的地位が高く、自分のいうことをきき、性格が温厚な男が求められる。
つきつめれば、男も合法的な慰安夫であって、理想的夫婦は慰安夫と慰安婦の組み合わせとなる。
けれども、そういってしまうと見もふたもないので「愛」という概念が生まれた。
夫婦愛という考え方が導入されたのは、明治政府になって、西欧式考え方に毒されたからである。それ以前は恋であった。
恋人という言葉がよくて、愛人という言葉が不道徳とされるのは、愛より恋の方がよかった時代の遺物である。
愛妻、愛娘はいいのに、愛人となると、にわかに不倫の気配をおびてくる。
愛という言葉は、いまだに、日本では認知されていない。
ちょっとおおおおおおお〜〜〜〜っっ
なんとも。。。まぁ。。。うっく。。。うーむ。。。。

お花を玄関に生けました。
おととい「こっぽい屋」でいっぱい買ってきたのです。
野の花たちがたくさん入っててものすごーく安いの!
もうねー嬉しくなって抱えてましたねー♪
お野菜も新鮮なので買っちゃった♪
レジの人にも思わず「嬉しいねー♪」って言っちゃった♪
そのお花を生けるのに準備した新聞紙。
そこで目に入った記事。
「お墓事情 変化あり」
思わず生ける前に見入る。。。。
団塊世代が一斉退職期を迎え、県内でも新たに墓地を買う人が増えている。
その家ごとの「家墓」を子孫が守り継ぐのが当然のように考えられがちな福井。
だが、近年は少し変わってきているようだ。
自分の手で生前に建ててしまったり、夫と妻両家の墓を合同で建てたり、といったケースが目立ってきた。
墓地はあるのに、建てるのを迷う事例さえも出てきている。
背景には少子化や「家系」そのものに対する意識の変化が透けて見える。
新聞のおくやみ欄を見ると、葬式の喪主が仏さんの名字と違うケースが増えている。
嫁いだ娘の夫が喪主を務めているのだと。
平行して増加傾向なのは、一つの墓石に二つの名字を並記したり、娘の嫁ぎ先の墓に隣接させる「両家墓」。
墓を建てるのをためらう人もここ数年増えているらしい。
墓の面倒を見てくれる人がいないというのが主な理由だそうだ。
はぁ。。。。。
なんともいえない感じだなぁ。。。。
どうして生きてる間に人や家族とちゃんと向き合わないのだろう?
自分死んでからちゃんと安心して墓に入れるように
入った後も居心地よくいられるように
そんな関係を生きてるうちに自分で作らないからじゃないの!!
不安になること自体が自分の生き方に自信がないんだ。
中途半端な関わりしかしてこないからだよ。
それよりも残念なのは
今まだ生きてるのにもかかわらず不安だ不安だって言ってること。
何も関わろうとしないこと。
不安ゆえに生前墓を建ててしまうこと。
そんなに信用ないんでしょうか?
そんな信用できない子供に育ててしまったのはあなたでしょう?
真剣な気持ちをぶつけてこなかったからでしょう?
たくさんたくさん話をしなかったからでしょう?
自分は気持ちいっぱいかけてほしいくせに
自分はかけてあげなかったんだよ。。。。
待ってたってだめだよ。
自分からいかないと。
そんなことをお花生けながら思っていましたね。。。
最後に新聞にこう書いてありました。
墓に参るという行為は自分の命のつながりや原点を見つめること。
墓の場所や形が変わっても足を運び、手を合わせ、頭を下げて感謝するという意識を忘れないことが一番大切では。
要は形ではなく、心ということ。
ん。納得です。
お隣さんが昨日魚釣りに行って釣ってきた魚!!!
黒鯛!!!
すげぇ〜〜〜〜っっ
昨日まで海にいたのね、あなた。
今、大根でウロコ取りやりましたー♪
今夜食べてあげるからねん♪
お隣のおじさんは魚釣りが趣味。
いつもニコニコしてでっかい声で元気いっぱいで。
最初あたしお嫁に来た頃はそんな豪快さが怖くて〜(笑)
でもとっても素敵なおじさん。
今はそんなところがいっぱいわかった。
嬉しいなぁ〜〜〜〜
そんなことを考えると。。。。
実家の弟くんが家を建てた訳ですが
弟くんの町内は何だか話を聞くとおかしいのだ。
町内会に入ってないところも多いのだと。
新しい人が多く若い世代も多いとのこと。
昔っからの住人の集まりではないだけに
考え方がなんとも浅く殺風景な感じ。
これまでのあたしはそんな昔風な町内会のことを
正直わずらわしいな面倒やなと思っていたのだが
あまりの新しい考え方の町内会のやり方に疑問を感じてしまった。
何だか淋しいのだ。
何かのご縁で同じ町内に住むことになったのに
名ばかりの会長さんや班長さんということに淋しさを感じるのだ。
そう思うとうちの町内会はあったかい。
何かと面倒なことも多いけど
それでも人間同士の交流や話し合いができている。
これまで同じ町内にいながら全く顔も知らなかった人も
班長をやることによって顔見知りになり話も出来た。
これもひとつの出会いだし縁だし
心地良く生きていくための大切な時間ではないだろうか。
人は案外話せば理解し合える部分だってある。
やはりそこは気持ちの生きものかなって思うことが多くなったように思う。
なかなか人とうまく関われない理由の中に
こうした大事な交流の機会を避けていることもあるんじゃないかな。
日々多忙な中なので自分からは入っていけないだろいうけど
そんな機会があったときは快く交流してみると
案外いい関係が築けるかもしれない。
人ともっと仲良くなれるかもしれない。
ちょっとの気持ちで好くもなり悪くもなると思う。
できるならばいい流れ作っていきたいですよね〜
昨日友達と語リ合って。。。
人は孤独と淋しさを抱えて生きてるのかなって思いました。
それを出すか出さないか
どっちがいいのかはわかりませんが
多分ほとんどの人は出せないまま時間が過ぎていき
日々の忙しさの中にそういうものが埋もれていってしまうのかなと。
そして自分でも気づけてなくて
ずっと後になってからあのとき淋しかったんやなぁってわかる。
それでも後になってからでもいいから
そんな心の内を語れるっていいかなぁって。
一生誰にも語ることのなかった想いかもしれないし
そんな自分の想いに気づけたことがラッキーだよね。
だってまだこれから先があるんだから。
どんな淋しさや悲しみや苦しみが過去にあったって
今はもうそんな気持ちを過ぎてしまった今なんだし
この先は新しくどんな風にだって変えていけるんだから。
そう思ったら前向いてやりたいことや楽しめることやればいいんだから。
きっとがんばれる!!
いや、きっとじゃない!がんばるの!!出来るの!!
出来ると思ったら出来るの!!
光が降り注ぐような素敵ないい1日でした。