嫉妬の劇場 

暗い炎を燃やさなかった男
誰からも妬まれなかった男



保科 正之(ほしな まさゆき)


 第二代将軍、秀忠の四男
 幼少名は幸松丸
 生没年  1611年〜1672年(慶長16年〜寛文12年)
 父:徳川秀忠  母:お静  兄:徳川秀忠 徳川忠長
  
● テレビドラマによく登場する将軍秀忠のスキャンダルですが、、、。
江戸時代、
徳川二代将軍「秀忠」は正室に頭が上がらなかったようです。ドラマによくでてきますよね。
しかし他にお静と言う女性と関係し、生まれた子供が幸松と名付けられました。この幸松が後の「保科正之」です。
しかし、正室「お江与の方」に頭の上がらなかった秀忠は、正之(幸松)を正式には認知せず、正之は見性院(武田信玄の二女)に養育されることとなる。
武家の男子は、7歳から学問と武芸の稽古を始めなければならず、見性院は、最も信頼のおける信州高遠の城主「保科正光」に正之を託した。正之は、保科正光の養子となり、寛永8年(1631)、21歳で高遠藩主となる。三代将軍家光は、正之を実弟として、最上山形、続いて会津の城主とし、幕政にも重く用いました。

1669(寛文9)年に隠居し、1672(寛文12)年12月18日、62歳で没。




彼は知足の人だった。=足るを知る人だった。

自分の満ち足りた立場を感謝する。
身のほどをわきまえてふるまう。


そして嘘つつかなかった人だった。

主君にも同僚にも嘘をつかなかった。



生涯官位四位のまま。

三位に上がるよう言われたが辞退する。
それは同僚たちよりも年齢も下であり調和を乱すからとのこと。


保科正之の「家訓 十五箇条 藩主としての心得」が福島県 会津で大切にされています。



これは「人への向き合い方」の極意が書かれているそうです。




ビジネスマスター 西村克己氏はこう解説されてます。

(芝浦工業大学大学院工学マネジメント研究科教授、日経ビジネススクール講師 )


江戸時代を泰平に導いたミッション・マネジメント

保科正之にみる決断力

江戸時代は270年近くにわたって平和が続いた世界史上でも稀な安定期といわれます。しかし、初期には由比正雪が反乱を企てた慶安事件、江戸を焼き尽くした明暦の大火など、世情を騒がせる事件が頻発し、当時の幕府は戦国的な武断政治から朱子学に基づく文治政治への転換を模索していました。つまり、直面する問題解決と同時に中長期的な政策ビジョンの確立を迫られていたのです。

この使命を一身に背負い、危機的状況や幕府の重要な政策面で抜群の決断力を発揮したのが保科正之でした。

将軍の隠し子として生まれ、信州高遠藩主・保科家の養子となった正之は、のちに徳川家の一族として認められ、出羽国山形藩主をへて会津藩主となります。ときの将軍・徳川家光から絶大な信頼を受けて幕政に参加し、さらに幼い第4代将軍・家綱の補佐役を託されたとき、正之のミッションは始動しました。

実質的な幕府のリーダーとなった正之は、確固たる信念のもとに「民政第一」を掲げ、数々の重要な政策を決定していきます。その後の長期的な幕政安泰は、彼の存在なくしては語れないといってもいいでしょう。







教科書には大々的に載らなかったわけですが

地味に真剣に本当の意味での歴史上に残る重要な人だと思います。




謙虚かつ素晴らしいお方だと思いますね。





[2008/05/12 11:08] 日常 | TB(0) | CM(0)

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